サラマンダーの王ジィンの助けでドームニュー・ガワンから脱出し、「学びの園…七つの眠りの島」で目覚めたアリアンですが、この「七つの眠りの島(Enez Sizum)」はブルターニュ半島に面したセーン島で、ドルイドの聖所だったそうです。
一世紀初頭の著述家ポンポニウス・メラは、カッシテリデスという島々の中のセナ(Island of Sena)という島にあったという神託所について記しています。その神託所は9人の処女の祭司に守られ、彼女たちは予言を行い病気を癒し、地水火風を支配していたといいます。地理的な説明からセナ島は、現在のシリー諸島のブライア島かトレスコ島のどちらかのようです。※
セーン島がどこにあるのかはわからなかったのですが、七つある「眠りの島」ということであれば、シリー諸島の大きな島は7つで、ブルターニュ半島にも面しています。人が泳いでブリテンまたはエリンへ渡れる距離ではないということと、メラの話から「七つの眠りの島」はシリー諸島のどれかだったのではなかと私は思っているのですが…。
※修正加筆
シリー諸島は現在、当時の島の中心部分が水没し、「諸島」になっていますが、アリアンの時代には、シリーは1つの島だったようです。(詳しくは『リオネス』の項目を参照してください)
どうやらセナ島は、ブルターニュ半島のサン島(ラテン語読みではセナ島)のようです。ドルイドの聖地は他に、イギリス南部のヘイリング島や、アングルシー島、タラ、グルネイ、ラ・テーヌ、コリニーなど、イギリス・アイルランドにとどまらず、ヨーロッパ各地にいくつもありました。
モナの島
現在のアングルシー島。
モナの島はドルイドの聖地で、1世紀頃ローマ軍のブリテン島征服時に、ケルト人が激しく抵抗したため、モナの島を襲い陥落させたという記録が残っています。
ローマの歴史学者タキトゥス(紀元55〜120)は、『年代記』にこう記しています。
「敵(ブリトン人)は武装して密集し、海辺にずらりと並んでいた。そのなかには黒服をまとい、乱れた髪をした復讐の神さながらの女達がいて、松明を振り回していた。その脇ではドルイド達が両手を空に向かってのばし、恐ろし気なのろいの言葉を叫んでいた。この気味の悪い光景に、ローマ軍兵士たちは一種の麻痺状態に陥った。彼等はその場に立ち尽くし、格好の標的となった。だが、その時彼等は、狂女の群れなど恐れる荷足らずと互いに励ましあい、将軍も彼他を鼓舞した。彼等は軍旗を押し進め、敵に襲いかかって、松明の炎で焼きつくした。スエトニウス(パウリヌス)は征服した島に守備隊を駐屯させた。そしてモナの野蛮な迷信に捧げられた森を殲滅した。囚人の血で祭壇を塗りたくり、人の臓器を仲立ちに神々に伺いをたてるのが、彼等の宗教だったのだ。」
タキトゥスはアリアンが旅に出る頃生まれていますから、これは実際に見た風景ではなく、参戦した兵士の話や、資料に基づいて書かれたものだと推測されています。
タラ(ターラ)
アイルランドの王がいた地。
ケルト人は文字を持たず、初期に記録された書物には「トゥアッハ(部族)」の王と地方の王(ハイ・キングとも呼ばれる上王)についてのみ書かれており、全国を支配するアイルランドの国王のようなものにはふれられてはいません。しかし、「タラの王」が遙か昔から王権の聖地であったという資料は、数多く残されています。
ルーグはマー・トゥーラ(モイツラ)の合戦時に大宴会が行われていたトゥアザー・デ・ダナーンのタラの王宮を訪ねていますし、ミレー族(ミレシウスの息子たち)は女神エリウ達と出会った後、ダナー神族の三人の王とタラで会っています(この三人の王はエリンの土地の女神バンヴァ、フォッラ、エリウの夫であった)。アルスター神話でも王宮はタラにありました。
タラの丘には、王宮跡と見られる遺跡が残っており、また、女神ダナーの一族が持ち込んだ、アイルランドの正統な王がその上に座ると叫び声を発するという「ファルの運命の石」が今でも存在しています。
また、タラの地では「タラの祭宴(Feis Temhara)」が行われました。Feisは「宴会」と「夜を眠り、過ごす」の両方の意味を持ち、次なる王とエリンの女神との婚姻儀式であり、正統な王である証をたてる認証式でもあったのです。
部族の王になる者はまず4つの試練で試されます。
「王に値しない者を厳しく撥ねつける王の馬車」
「大きすぎることを証する王のマント」
「手の幅の隙間しかないが、王たる者には開いてその者の馬車を通す二個の石」
「アイルランドの正統な王がその上に座ると叫び声を発するという“ファルの運命の石”」
次に「牡牛の眠り(あるいは牡牛の宴会、tarbhfhess)」と呼ばれる儀式でも選ばれなくてはなりませんでした。一人の男が殺された牡牛の肉とスープをを腹一杯食べ、横になって眠ると、四人のドルイドが呪文の歌を歌います。すると男は「王となる運命を持った男」を夢の中に見るのです。
この儀式は六世紀中頃のディアルマッド・マッケロールの王政の頃まで続けられていましたが、アイルランドのキリスト教化に伴い廃止されてしまいました。
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