屋根裏部屋

No.5

少年陰陽師の話

安倍晴明の末孫、安倍昌浩の活躍を描く、小説が原作のTVアニメ。
貴船神社で兎歩(うほ)と思える動作をしていたり、「乞功奠(きっこうてん)」なんて言葉が出てきたり、「それはないだろ」と思う事もあるが、陰陽師にハマった私にはかなりツボである。
藤原彰子の入内から時代は長保元年(999年)であることがわかる。
晴明は79才、あと6年の命だ。

主人公昌浩は、晴明の次男吉昌の三男のようである。
そして「晴明が後継として選んだ」ほど、才能があったようである。
しかし、『尊卑分脈』や『土御門家記録』には載っているのかもしれないが、手に入る系図には吉昌の子供は載っていないのだ。(左図グレーの部分)

原作には何か説明があるのかもしれないが、読んでいないためわからない。

歴史上では大膳大夫・陰陽頭・天文博士を歴任し、従四位下まで登った長男の吉平が、晴明の後を継いでいる。地震を予知したり、なかなか力のある陰陽師だったらしいが、何度か行った雨乞いの儀式では、雷は鳴っても雨を降らせる事はできなかったこともあったようだ。
しかし、どういうわけか吉平一家は全く登場しない。

それにしても藤原道長の彰子姫は、ケタはずれの非凡さである。
第二話でいきなり昌浩に「あなたたち、何しているの」と顔を見せているが、通常こんな事はあり得ない。平安時代の女は家族以外の男には顔もみせず、口もきかないのが普通である。人前に出る時は扇で顔を隠し、顔を見せるという事は、結婚を許したようなもの。中流貴族の女でさえそうなのだから、名門藤原家の長女で帝の妃がねとして育てられたはずの彰子は、深層の姫君だったはずなのだ。しかも御簾も全て上げっぱなし…
本来なら直接話をする事などできず、お付きの女房を介してのやりとりであったことだろう。
また、この時道長の邸を藤原行成がうろうろしているが、行成にとって道長は従祖叔父(いとこおおおじ 親と道長がいとこ同士)。呼ばれでもしない限り、同じ邸にいることはないと思うのだが…。

◆陰陽寮
昌浩は陰陽寮勤務の国家公務員。配属部署は科学技術庁、仕事は天体の星の変化や暦を見て吉凶を占う、最先端の科学者である。
長官にあたるトップが陰陽頭(おんみょうのかみ)、次官が陰陽助(おんみょうのすけ)。

役職
官位
従五位下
従六位上
陰陽博士
天文博士
正七位下
允(じょう)
陰陽師
暦博士
従七位上
漏剋博士 従七位下
大属(さかん) 従八位上
少属 従八位下
 
トップに登り詰めても中級役人だが、晴明は上がつかえていたのか、陰陽頭にはなれなかった。しかし、帝や貴族の覚えがめでたく、従四位下の位を授かっている。大膳大夫や(宮内省大膳職の長官、宮中の食料を管理する、正五位)左京権大夫(京職、平安京の管理、従四位)などを歴任したが、おそらく名誉職だろう。

ところで、昌浩の上司は誰だったのだろう?
第十四話で
吉昌「自分から陰陽頭に申し上げておこう」
晴明「陰陽頭は何をやっとったのじゃ」
二人のセリフから陰陽頭は安倍氏の人間ではない事がわかる。
では、この頃の陰陽頭は誰なのか?

この年の『具注歴(陰陽寮発行の年中行事と日々の吉凶が載っている、書き込み式カレンダーで巻末に作成者の書名がある)』の作成には賀茂光栄(みつよし)が係っている事から、この頃の陰陽頭は賀茂光栄だろう。
吉平が993年に陰陽助になっている記録があるため、陰陽助は吉平で、吉昌は天文博士だろう。吉昌が陰陽助になるのは1001年、陰陽頭になるのは1004年のことである。
賀茂光栄とは晴明が最初に弟子入りした陰陽師、賀茂忠行の子であり晴明の師でもある、賀茂保憲(やすのり)の息子。保憲が晴明をかわいがり、それまで賀茂家が独占していた陰陽道を2つに分け、暦道を賀茂家に、天文道を安倍家に伝えることにしてしまったため、光栄は内心おもしろくなかったようだ。実際、ライバルとして張り合い、どちらが保憲により大切にされていたかを言い争いしたこともあったという説話が伝わっている程である。長保二年(1000年)には陰陽頭の位を退いていたようだ

ここで、先ほどの晴明のセリフ。
陰陽頭が賀茂光栄だと仮定して聞くと、まるでイヤミを言っているように聞こえて笑ってしまうのだ。

晴明も『政事要略』の長保三年(1001年)閏12月29日の項に「散位従四位下安倍朝臣晴明」と記されているため、すでに陰陽寮の役人を退いていたようだが、アニメのように何かあると宮中に呼ばれ、参内していた。
『権記(藤原行成の日記)』によると、この年(長保元年)に大和権頭であった行成は病気になったらしいが、治ったので、道長の邸である土御門邸で7月16日に行われる予定だった競馬を見に行くつもりだった。しかし、一条帝が歯痛になったので中止になったそうである。早速晴明が呼ばれ、歯痛に付いて占い、「さしたることはございません」と答えている。
ちなみに、行成は祖父伊尹(これただ)の行状が原因で(穂積諸尚ではなく)藤原朝成(ともひら)に祟られそうになったことがあるようだ。

2007.2.1

◆貴族の一日
第十三話では、彰子が昌浩を起こしているが・・・
日が高くなっているので、「そろそろ起きないと陰陽寮に遅れるわよ」どころではない、カンペキに遅刻である。
ところが昌浩の母は「朝餉の支度が忙しくて彰子さんに(起こすのを)頼んだのですよ」と言っているのだ。
この頃の朝餉は、お勤めが終わって帰宅してから食べるものだったので、晴明が食べているのが本当に朝餉ならば、昌浩は遅刻どころか無断欠勤である。
それとも、晴明は退職しているので、早い時間に朝餉を食べているのであろうか?

藤原行成の曽祖父(ひい爺さん)である藤原師輔(もろすけ)が書き残した『九条殿御遺誡』によると、官僚・公務員の起床はだいたい午前三時頃。
起きたらまず、属星(北斗七星中の個人の運命の所属する星。生年によって違う)の名号を微音で七遍唱え、次に鏡を見て体調をチェックする。
占いの指南書『具注歴』で今日の運勢(吉凶)を確かめ、顔を洗い、楊枝で歯磨き、西を向いて手を洗って仏名を唱え、信仰する神社にお祈りする。
昨日の出来事を具注歴の日記欄に書き記し、人によってはお粥などの軽い食事をとるが、正式な朝食は勤務を終えて帰宅して後、午前十時〜十二時頃に食べた。

日がよければ風呂に入るが、だいたい5日に1回程度。が、この「日が良い」というのがくせ者で、一日に入ると短命になるとか、十八日だと盗賊に会う、午の日は愛敬を失う、亥の日では恥を見る、寅辰午戌の日は入浴してはならない、などと具注歴を忠実に守ると入れる日が非常に限られてしまう。
「不潔になるから無視して入る」という貴族もいたらしい。
ちなみに行成は「具注歴では一日はダメとあるが、歴林(賀茂保憲が記した暦本)によると五月一日は永年除禍だ」と、1009年5月1日に入浴し、55才で亡くなっている。源氏物語で光源氏が60才で長寿の祝いをしているのを見ると、まあ当時としては平均的な寿命だったのか。
晴明の85才は長命だけど・・・。

三日に一度髪を梳き、丑の日であれば手の爪を切り、寅の日であれば足の爪を切る。
束帯を着て太刀を佩き(太刀をつけられるのは勅許を得た者のみ)、高級官僚であれば、車に乗って六時半頃出勤する。
通常勤務は午前中で終わり、妻がいれば妻の元へ行き、一緒に朝食を取る。勤務の帰りに女の元へゆくこともあったようだ。もちろん、夜になってから出かけることもあった。
年中行事開催日は、その後に宴会が行われたりする。お祝い事だったりすると酒宴は夜更けまで続き、酒が回るにつれてセクハラしたり、徹夜する貴族もあったようだ。

第十四話で敏次は昌浩の仕事を代わりにしたため、真夜中まで残業したようだが…
当時の勤務時間が夜明けから午前中いっぱいだったことを考えると、それはほぼ徹夜に近い。
自分の徹夜の元凶が、女の元に通っているのを目撃したら、そりゃはらわたが煮えくり返るだろう。可哀想なとっしー・・・

それにしても、太陰の声は何とかならないものか。一人だけ浮いてるし、ヘタクソすぎる。

2007.2.25

◆貴船神社
実在の場所のためか、現在の面影をみることができる。が、やや設定がアヤしい。
(写真はすべて2000年撮影)

 
第八話のこのカットは、奥宮の入り口の思ひ川と思われる。
和泉式部が夫である橘道貞の愛を取り戻そうと貴布禰(貴船)詣でをした際に、
この川で手を洗い口を濯ぎ、身を清めたそうだ。

 
ところが、進んでいった先はなぜか奥宮の手前にある、現在の本宮の入り口。
写真には写っていないが、同じ場所に鳥居もある。
長い参道のようだけど、実際は意外と短い。(第八話)

 
上の階段を上りきると、現在の本宮がある。(第九話)

 
第九話と同じ場所のようだが、こちらは横に石積みがあるので、奥宮のようにも見える。
下2枚は奥宮の画像で、右は、左の画像の右端に写っている建物を
正面から撮影したもの。舞台の奥にある祠が、本殿。
第九話の画像(現在の本宮)にも石積みが写っているが、
本宮の左側は山であり、写っているのは石積みではなく石垣である。
(第二十二話)

 
この船形の石積みは、玉依姫御料の黄船を、人目を忌みて小石で覆ったというもの。航海する時、この小石を携帯すると、海上安全と言われている。
本殿の中。本殿下には巨大な龍穴(縦穴)があり、文久年間の本殿修理の際に、大工が誤ってノミをこの中に落としたところ、にわかに空がかき曇り、風が吹きすさんでノミを空中へ吹き上げたそうだ。

2007.3.9

もっくんが・・・! 紅蓮が・・・!
エライことになってしまった。
最終回まで後3回?早く戻ってこないかなぁ。

 

◆式神
晴明の使う式神として十二神将が登場するが、式神(識神とも書き、しきじんとも読むようだ)とは、陰陽師の命令のままに動く鬼神のことである。晴明は式神を手足の如く使い、身の回りのちょっとした処理や呪詛はもちろん、人を殺す事まで出来たらしい。
絵巻「不動利益縁起」・「泣不動縁起」には、疫病神を鎮めようと祈祷を行っている晴明の背後に、鬼の姿をした式神の姿が描かれているが、晴明の妻が醜い容貌の十二神将を恐れたので、普段は邸近くの一条戻橋の下に隠し、用事のある時だけ呼び出していたという。邸内に人がいない時などは神将を呼び出して使っていたらしく、人がいないのに蔀が上げ下げされる事があったり、門がさされたり(かんぬきをかける事を指すのか?)したそうだ。

もっくんあるいは紅蓮、六合や青龍その他の十二神将は、昌浩と普通に「会話」しているが、晴明も式神と会話していた記録がある。
寛和二年(986年)に花山天皇が藤原兼家・道兼父子の策略で出家するという事件が起こった。花山天皇は花山寺へ向かう途中に晴明の邸の前を通ったが、その時占いでその事を知った晴明が「帝が譲位したという天変が見えたが、すでに譲位は成立してしまったようだ。直ちに参内する。とりあえず式神が一人参内せよ」と言うと、“目には見えぬもの”が戸を押し開けて、「ただいま、帝が門の前をお通りになったようです」と答えたと言う。

また、晴明が讃岐の国へ下った時、連れていた使鬼神(式神)に灯りをともさせて夜道を歩いていたが、善通寺の前を通り過ぎた時、火が消えて何も見えなくなってしまい、寺を通りすぎると使鬼神が再び晴明のもとに戻ってきた。晴明は怒って火を消した訳を問うと「あの寺の額(弘法大師が書いたものと言われている)は四天王が守護しているので、恐れをなして他の道を通った」と説明したという(『西讚府志』)。
太陰ならやりそう・・・

晴明は俗人でありがなら、那智で千日の修業をしたと伝えられているが、その時の出来事だろうか、二人の式神を用いて熊野の那智にいる魔衆を岩窟に「狩籠(呪縛して封じたという意味であろうか?)」したという記録も残っている(『熊野山略記』『源平盛衰記』)

それ以外にも第一話でじい様の手紙を読む昌浩を見守り、その後飛んできて文になる鳥や第三話の蝶なども、式神の一種である。
晴明も同様な式神を飛ばしたという説話があり、道長が法成寺を建立する際に、道に埋められていた呪物の上を危うく通りそうになった。呪詛を行った人物を探し出すために晴明は懐から紙を取り出して鳥の形に結び、呪文をかけて空へ投げると、白鷺となって南の方へと飛んでいった。鳥の落ちる場所を見にいかせると、そこには道摩法師がおり、問いただすと「堀川左大臣藤原顕光公の頼みで術を仕掛けた」と白状したという。(『古事談』『宇治拾遺物語』)

呪詛返し
もっくん 「あれは呪詛だ。敏次に憑依した怨霊が仕掛けてきたに違いない。怨呪の玉を使ってな。一度仕掛けられた術はもう止まらない。行成を死に追いやるだけだ。・・・もう一つだけ手はある。」
昌浩 「呪詛を返す」
もっくん 「返せば今度、敏次が死ぬぞ。行成を助けるために敏次を見殺しにする。それでおまえはいいんだな?」
昌浩 「そんなの、いい訳ない!ほんとは俺だって、二人とも助けたい・・・でも!」(第十四話)

晴明も呪詛返しを行っている。
ある時、蔵人の少将が列をなして内裏へ向かっていたところ、烏が少将に糞をかけた。晴明は、烏が式神で少将の命が今夜限りであることをすぐに見抜き、そのことを少将に告げ、晴明は少将を抱きかかえて一晩中呪文をぶつぶつ唱え、護身の法を施した。
式神を放った陰陽師から使いが来て語った。「強く守られている人だったのに、命令に従って式神を送り出したけれど、式神が返ってきて、今度は自分が式神に打たれて死のうとしている。してはならないことをしてしまった」
実は少将と同じ邸に住む少将の義理の兄が、舅が少将ばかりを大切にするので、陰陽師に頼んで式神を放って、少将を調伏しようとしたのであった。(『宇治拾遺物語』)

2007.3.25

つづく・・・かもしれない

バックナンバー

No.1 エヴァンゲリオンの話
No.2 宇宙戦艦ヤマトの話
No.3 ラーゼフォンの話
No.4 医者ドラマの話
No.5 少年陰陽師の話
No.6 サザエさんの話