大和朝廷は百済から無理をして帰朝させた、日本人でありながら百済の高官になった日羅に、「国の政(くにのまつりごと)」を問います。
大和朝廷が日羅に尋ねたのは、具体的には「任那の回復策」であったと思われるのですが、これに対する日羅の答えは、
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民を養い、国を豊かにした後、船を造って津(港)ごとに置き、すぐにも百済へ出兵するように見せかけよ。そして百済の王を呼びつけ、もし王が来なかったら、王子を呼べ。そうすれば百済は日本を恐れて、自然と日本に従うようになるだろう。 |
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百済人は、「300艘の船がある。筑紫に行こうと(侵略しようと)思っている」と言っていたが、もし本当に「筑紫に来たい」と言ってきたら、来ることを許すふりをせよ。必ず最初に、女子供を多く船に乗せてやってくるだろう。大和朝廷は壱岐・対馬に秘かに兵を伏せ、やってきた百済人を殺すのだ。けして欺かれることなく、要所に強固な城塞を築くのだ |
血は日本人とはいえ、今や日羅は百済の高官であり、日羅についてきた百済人にとっては、許し難い祖国への裏切りです。そこで、日羅と共に来日した百済の高官が、徳爾(とくに)という低い身分の百済人に、自分たちの船出のあと、日羅を殺すように命じます。
百済の高官恩率(おんそち)・参官(さんかん)が、徳爾・余奴(よぬ)に「秘かに日羅を殺せば、国に帰ってお前達の働きを王に申し上げ、高い位を授かろう。そして、妻や子供たちを良いようにしてやろう」と言い残して日本を去った後、日羅は桑市村(くわのいちのむら)から難波の館へと移ります。
ここで、「日本書紀」には不思議な記述があります。
徳爾らは日夜日羅をねらい、殺そうとしますが、日羅には「身の光、火焔の如きもの」があり、恐れて殺すことが出来ませんでした。しかし、12月の晦(つごもり)に、「光失ふを候(うかがい)て」殺されてしまいます。殺された日羅は蘇り、「このこと(日羅を殺したこと)は、私と共に来た使者がやったことだ。新羅の者がしたことではない」と言い、言い終わると死んでしまいました。
天皇は物部贄子と大伴糠手子に、日羅を小郡(おごおり)の西の丘に埋葬させます。と同時に徳爾らを捕らえ、問いただすと、自分の罪を認めたので、朝廷は日羅の親戚にあたる葦北君らに徳爾らを引き渡し、好きなように処分して構わない、と言い渡しました。葦北君たちは、徳爾らを殺し、弥売嶋(みめしま)に捨て、日羅を葦北へと運び、埋葬し直しました。
ここで、謎なのは、作中にある「あれはもう命がつきている。この私に…だから日羅には…もう死んでもらいましょう」という厩戸王子の言葉。日羅の提案した政策を、大和朝廷は実行するつもりはなかったようですから、日羅が死ぬことにより、得る利益とは、いったい何だったのでしょう?そして、日羅は「百済の高官」ではあるが、「僧」ではないようです。私には、「厩戸王子の力を見せるため」であったような気がします。
池田理代子さんの「聖徳太子(創隆社、全7巻)」には、より史実に基づいた日羅が描かれています。私は、この本を読んで、日羅がどういう人なのか、初めて知りました。
こちらの漫画では、日羅が「百済よりも日本人としての心を大切に思っている」ことを厩戸王子に指摘され、その事を同行の百済人に「裏切り」と見なされてしまい、殺されています。日羅の魂は、生まれ変わって小野妹子として誕生したという設定になっています。