◇ 日羅(にちら) ◇


「日出処の天子」1巻83Pで、厩戸王子が(女装をしてまで)会いたいという、「百済から来た僧、日羅」とは、いったいどんな人物なのでしょうか?
75Pでは、吉備海部の羽嶋が、百済王の元から、日羅を強引に来日させたことが語られています。
「日出処の天子」ストーリー中では「そこにいる童は人にあらず」と言った後、(王子に?)殺されてしまい、何故、日本は日羅を無理矢理帰国させたのか、そしてその目的は何だったのか、全く語られていません。

日羅とは、宣化天皇の時代に新羅が任那を侵略しようとしたとき、大伴金村の息子狭手彦(さでひこ)と共に任那へ行き、任那がなくなった後も、そのまま百済へ留まって百済に帰化した日本人、火葦北国造刑部靫部阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこ おさかべのゆけい ありしと)の子供で、父親と一緒に百済に留まり、達率(だちそち)という百済で2番目の位まで昇った人物です。

欽明帝の時代に、百済よりの政策を取っていたせいもあって、日系人は重く用いられていたようですが、それでも、異国の地で「達率」の位まで昇るには、大変な苦労だったでしょう。おそらく、日羅の名声は、大和まで届いていたのだと思います。

当時の帝である敏達帝は、父欽明帝の遺言である「任那回復」を果たさなくてはならない、と思っていたようで、そのために日羅を呼び寄せ、知恵を借りようしていたようです。
敏達12年7月に、「欽明帝の任那復興の願を再確認し、百済にいる日羅の力を借りよう」という詔を出しています。

そこで、紀国造押勝と、吉備海部直羽嶋を百済に遣わし、日羅を迎えに行かせました。しかし、百済の威徳王はその申し出を断りました。再び天皇は吉備海部直羽嶋を百済に遣わします。今度は百済王に頼むのではなく、直接日羅に会いに行きました。

が、日本と百済との友好関係はとっくに冷え切っており、気安く日本人と会うわけにはいきませんでした。そこで日羅は、羽嶋に女を買うふりをして家に入ることを示唆します。

日羅は、天皇の詔に応じ、母国である日本へ行くことを希望しました。羽嶋に「百済王は、日本の朝廷が、自分を日本に留めたまま帰さないだろうと疑っている。日本へ行くことは、許してもらえないだろう。だから、厳しい態度で急いで自分を召すようにしなさい」と、教えます。
百済王は、仕方なく日羅の帰国を許しますが、百済人の部下を、一緒に付けてよこしました。おそらく、日羅の行動を監視すると共に、日羅を百済へと連れて帰るためだったと思われます。

難波に着いた日羅は、父のかつての主君の息子である、大伴糠手子(おおとものあらてこ)のねぎらいを受けますが、うやうやしく糠手子を拝しながらも、嘆き恨んで語ったと日本書紀は記しています(何を嘆き恨んだのかは、書かれていませんが、おそらく自分たち親子を見捨てた祖国に対する嘆きだったのではないでしょうか)。

阿利斯登が、戦が終わっても日本へ帰ってこなかったのは、欽明元年に百済外交の失敗(任那の割譲)を責められ、大伴金村が失脚したことが大きな理由であったと思われる。これ以降、蘇我氏と物部氏が権力を握ることになるのである。

 

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