淡水が祖国・新羅で所属していたと思われる、「花郎(ファラン)」とは、いったいどのようなものだったのでしょう?
「花郎」とは、新羅の青年貴族集会の指導者のことで,上級貴族の15,16歳の子弟を花郎(ファラン)として奉戴し,そのもとに多くの青年が花郎徒として集まって集会を結成したそうです。
始めは,美しい女子を選んで「原花(オンファ。源花とも書く。集会の団長)」とし,その元に男子が集まると言う形でしたが,原花と原花の間にトラブルが起こるようになり,弊害が生じたので,女性の変わりに顔の美しい青少年で,性行の正しい男子を択んで団長とし,名前を「花郎」としたようです。
花郎に奉戴された者は,新羅滅亡まで200余人を数え,各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から1000人に及んだと伝えられています。彼らは,平時は道義によってみずからを鍛え,歌楽や名山勝地での遊楽を通じて精神的,肉体的修養に励みました。そして戦時には戦士団として戦いの先頭に立ち,活躍したのです。
この花郎の制度は,国家的事業として行われ,後に高句麗を滅ぼす原動力にまでなりました。
やがてその風俗は,「風流」「風月道」と言われるようになり,花郎も「国仙」「仙郎」と,呼ばれるようになりました。
花郎たちは慶州の西部にある,断石山(標高829メートル)で修行していました。ここには神仙寺があり,10メートルほどの巨大な弥勒立像と,弥勒半跏思惟倚像が彫られています。この仏は花郎たちにとって帰依仏であり,擁護仏であったと思われます。当時,庶民は花郎のことを,56億7千万年の後に人間界に現れ,釈迦の教えにもれた人々を救う,弥勒菩薩と重ね合わせて見ていたようです。国仙(クックソン)とは,彼らにとって弥勒仏の化身だったのです。