敏達14年、敏達帝(訳語田大王)が亡くなりました。
亡くなった皇族はすぐには埋葬されず、数ヶ月〜数年間「殯(もがり)」という儀式を行います。(昭和天皇の時も行われました)仮宮を作りそこへ遺体を安置する、いわば本葬する前のお通夜みたいなものでしょうか。かなり長い間、喪に服すわけです。この殯の最中に穴穂部皇子が殯の庭へ進入するという事件が起こりました(585年八月)。
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これは586年五月に穴穂部皇子が豊御食炊屋姫(作中では額田部皇女)に狼藉を働いたという事件とは一応別のものと考えます。586年の記述が誤って585年の項に挿入されてしまった、という見方もあります。 |
敏達帝の忠臣であった三輪君逆は、隼人と共に殯の庭を守っていました。そこへ穴穂部皇子が現れ「どうして死んだ王の庭に仕えて、生きている王(=自分)に仕えないのか」と言ったと「日本書紀」にあります。
穴穂部皇子は「次の大王は自分だ」と言ったわけです。このことから次の天皇が決まっておらず、有力な皇子もいなかったことが分かります。
天皇の継承権は、身分の高い母親から生まれた皇子が高く、そしてある程度成長している皇子に決まります。(「平家物語」にあるように、幼児が天皇になることはあり得ません)そして、父から子よりも、兄から弟へと継承されることも多々ありました。
穴穂部皇子は欽明帝の皇子ですが、母親は蘇我の出とはいえ勢力が劣る小姉君の三男で、欽明帝の皇子皇女全体の中ではおそらく第9子あたりだったと思われます。欽明帝には后(1人)妃(5人)との間に16男9女をもうけていますが、次の天皇に即位した用明帝(豊日皇子)は欽明帝第4子、その次の天皇である崇峻帝(泊瀬部皇子)は穴穂部野皇子の同母弟ですが、第12子です(書紀)。
何故穴穂部皇子は天皇の座を(自分より年上の皇子を差し置いて)主張することが出来たのでしょうか。
主だった皇子とその母、当時の推定年齢をあげてみます。
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母
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推定年齢
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押坂彦人皇子 |
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前后 広姫(皇族) |
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15才
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竹田皇子 |
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豊御食炊屋姫(皇族) |
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12才
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尾張皇子 |
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〃
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5才
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豊日皇子 |
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堅塩媛(蘇我氏) |
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40才前後
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穴穂部皇子 |
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小姉君(蘇我氏) |
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30才前後
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他に穴穂部皇子と年が近い皇子は、豊日皇子の下に2人、後述する茨城皇子と穴穂部皇子との間に1人いるが、有力視されなかったということは、早くに亡くなった可能性もある。 |
上にあげた皇族出の后から生まれた皇子の名があがらなかったということは、押坂彦人皇子でさえ「若すぎる」と判断されたのでしょう。まして天皇崩御当時大后だった、豊御食炊屋姫の皇子を天皇位に付けるわけにはいきません。
嫡子が幼い場合は弟に譲られるのが一般的だったのですが、父・欽明帝の正后の石姫には敏達帝以外の男子がありませんでした。その他の皇族から出た后には男子がありましたが、既に蘇我氏の勢力が大きく、有力視されなかったようです。
そして蘇我腹の后の中でも、穴穂部皇子の年齢は下の方に位置します。
ところで堅塩媛の長男は豊日皇子ですが、「書紀」の敏達7年に「莵道皇女(押坂彦人皇子の同母妹)を伊勢の斎宮に任命したが、池辺皇子におかされたため解任した」という記述があり、どうやらこの池辺皇子というのは豊日皇子を指すようです。「法王帝説」「元興寺縁起」などで豊日皇子は「池辺皇子」という名で記されています。
また小姉君の長男である茨城皇子も、伊勢の斎宮である磐隈皇女を犯したという前歴を持っています。
このことから、自分より年長の蘇我腹の皇子がそろってスキャンダルを起こしていたという事実と、「日出処の天子」で描かれているように気性が強く知恵があり、行動力もあった有能な皇子であると、まわりから認められていたという理由で、「我こそが次の大王である」と名のりを上げることが出来たのだと思われます。
しかし、次の天皇は豊日皇子(用明帝)、皇太子(ひつぎのみこ)は押坂彦人皇子に決まりました。これは馬子・その他の群臣が年齢・実力からいっても豊日皇子が妥当であるという判断を下したということでしょう。